第4町会の歴史
昔の井田第4町会地域ってどんなところ?
この地域には縄文時代から古墳時代にかけて、集落がありました。現在の中原養護学校付近には『神庭遺跡』『井田伊勢台遺跡』があり、周辺には古墳や古代のお墓跡がいっぱい。貝塚も発見されており、古代から多くの人たちが暮らしていた地域です。
飛鳥・奈良時代には、大和政権の統治下で国・郡(評)・郷の行政区画が整備され、武蔵国橘樹郡となり、郡衙が影向寺付近か高津区千年付近に置かれたと推定されています。影向寺には仏教伝来間近の7世紀頃まで遡る遺跡が見つかっています。
平安時代には、後の天照皇大神宮(井田神社)も鎮座していたと言われています。中原区井田の地名は、井田古城跡(井田病院)に井田摂津守某(桓武平氏畠山氏流)なる人物が居住したことからついた地名と(他説あり)いう説があります。伝承によれば井田摂津守は平安末期に鎮守府将軍源義家に従い陸奥国へ出陣し、討死したとあります。この井田古城、以前は土塁・空堀などが確認できたようです。井田病院の敷地になり遺構らしきものは確認できません。
隣村の蟹ヶ谷境から入る丘陵の尾根道(白(しらみ)塚跡沿い)は鎌倉街道といわれていて、源義経が兄頼朝に追われ奥州に落ちて行く途中しばらくこの地に陣を備え、兄の様子を
見て居たところとされている陣屋跡(昭和橋南側のセブンイレブンの少し坂上)もありました。今は駐車場になっています。
室町時代に入ると、中原養護学校の敷地は後北条氏家臣、中田加賀守の城址(井田城)が造られ、検地奉行・請取奉行等を務め重要な地位にあったようです。中田加賀守は、天正十八年(1590)小田原落城の際に討ち死にしたとも伝わっています。
城跡北東側崖の中腹にある毘沙門天の碑(土地の水神様)があります。これは井田城の北の守護の為に祀られたという説もあります。
【参考文献】新編武蔵風土記稿